昭和41年03月21日 夜の御理解



 今朝、私今朝方頂きます事は、この辺の何かいうなら雑な言葉ですけどね、誰かをお叱り下さっておると言った様な感じですが、おかげば頂かねば神様は分からんというお声を頂きました。誰かが叱られておると、それでいて、私が叱られておるといった感じではないんですよね。誰ば叱りよんなさる感じなんですよね。おかげを頂かにゃあ神様は分からん。確かにそうですね。おかげを頂かねば神様は分かりません。神様を分からなければ信心を進めてもいけません。
 ですから、そのう神様をなら、おかげを頂くために、ひとつお互いが、教えを頂かしてもらい、教えを本気で行じさせてもらわなきゃ、一心にならなければ、これが私の真心だという真心を打ち出してみなければ、そげなことでおかげは受けられんと、例えば頂いたなら、そげな事は本気で改まなければおかげは受けられません。そこには身もう近に、それこそ、信心が古いから新しいからでありません。
 その気になれば神様が、こげんとが神様の誰でん働きと、言いなさっとじゃろうかと始めの間はです、そげな風に神様が現れて下さるです。ですから信心が増々楽しゅうなるのです。どんなに高尚な事ばっかり言うても、神様を分かったごと言ってもですね、おかげを表しきっとらんで、おかげを頂きとらんで、日々をですよね、神様を身近に感じきっとらんでから、いくら神様の講釈をしても、それは何といいましょうか、いわゆるあの宗教学者というのがおりますよね。
 宗教の事を研究する学問をしたと同じ事で、ほんなら生きた神様を現わしきらんです。理屈はどげなこってん言う。だから私は今朝から銘々が怒られているような気持でですね、おかげば頂かねば神様は分からん。そこで、そんならおかげば頂く為に一生懸命お参りしてみる。一生懸命お参りしてみて、初心の時はそうですよ。ただ一心にお参りさせて頂いて、これが神様のおかげであろうと思われるような、おかげを実感するから信心が進められていく訳です。
 そこで私は、この神様がですね、現れなさる具合といいますか、それはもう確かにですね、天地の親神様は、誰かれなしに、おかげ下さっているのですけれども、こちらの神経がですね、神様に向かって、小さい神経、もう本当に小さい神経ですね、微妙な神経、例えば神様の前に、御神前の御三宝が、一寸歪んだっちゃ、御祈念が出来んちゅうぐらいな神経、神様が、そげな小さいところまで入って行ってからですね、神様の働きを見せて下さるですね。
 ですからね、もうやはりあの情の細やかな人には、細やかに神様働きなさるから、おかげをどっちからでも感じる事が出来る。ですからやはり親切にならにゃならん。真心にならにゃならん。神様に向かった神経が本当に微妙なまでに、小さい神経を使われる様にならなければ、神様をここに感じた事は出来ません。ですからこちらが暖かい事になりますと、神様が暖かいふうに、神様は現れて下さいます。それこそ情細やかに現れて下さいます。ですから神様を感じれる事ができます。
 それとは反対に、冷淡な人は神様が冷淡に現れなさいます。働きがありよるですけど、冷淡な現れ方で現れてみえるのです。ですから神様のおかげをですね、おかげと、ぽっとキャッチしきらんです。ひとつ信心させて頂いて、まずおかげを受けなければ、神様は分からん。神様を分からなければ信心の進め具合が、進めるのに私はその楽しみがない。あぁこの位の信心でも、こんなに神様が御働き下さるのであるから。
 一段また進めさせて頂いたら、又この事でまた一段進めたら、神様はどげなおかげを次に下さるだろうかと言った様な心の中にですね、どういう所を通らして頂いておっても、ほのぼのとした元気が湧いてくる、希望が湧いてくる。日々神様をですね、それは良い事悪い事につけ、神様の働きを身をもってこう感じれる様な、一つおかげを頂かねばなりません。その中にはもう本当に立ったりしゃごだりの中でもです、自分の我侭の事で立ったりしゃごだりしよったっちゃ、神様はいっちょん働きなさいません。
 実意を欠いだある方では、神様は実意を欠いだ風に現れなさいます。ですから頂く事は出来ません。ですけども本当に立ったりしゃごだりする中にも、御神意のままに、こう動く事が信心だという動き方をさして頂きよりますと、日々の微妙な動きが、例えば私が朝から御祈念終わらせて頂いてから、善導寺にやらせて頂いてね、例えば、下がらせて頂いてお食事をさせて頂いて、そして帰らせて頂いてから、合楽の方に行って帰らせて頂いてから、ついさっき青年の方達が五、六人、一人の方がおかげを頂いたから、それに連れられて参って来た人達がありますが。
 その時までの一日の事を考えてみますと、こういう所にもこげな神様の働きがあいよると、ずっと感じどうしに感じております。私は、ですから神様を外す事はありません。どんな場合でも、神様恐れ入ってしまうなぁ。例えば、さぁそんならいっちょ着物を着ろうか、関さんが迎えにみえるけど、みえんからバスででも行かじゃごて、というて着物を着て出ろうという所に、関さんが見えるという具合ですたい。いうなら、秋永先生達がみえてからここで、大体お話はここでしと切りついとって、むしろ私が立った方がよかという所で、さっきの青年達が見えるという具合ですたい。
 例えば、この中には一日の事が、ずっとそうです。誰に会ったとか、会わなかったとか、するがったとかするがわなかったとか、そう言う様な事まで神様の働きをビシビシ感じます。ですから、何時も神様の御守護を受けている私という実感があるかですら、やはり何時も誰よりも私が有難い。有難いからいよいよそういう働きを、四六時中感じておる事が出来る。寝とっても夢の中でも御働き頂いておる事を感じる。そう言う風に神様のですね、御守護受けておると言う事を、理屈で分かったって何もなりません。
 本当に生に実感にです、御守護受けておるんだと感じさせて頂く。そういうおかげを頂かねば信心を進めていく楽しみがありませんね。詳しくなっただけでは神様は現れて下さいません。暖かくこちらが出れば、神様は暖かく現れて下さいます。こちらが冷たく出れば、必ず神様は冷たく現れて下さる。おかげは一様なんです。しかし現れ方が違う。暖かく現れて下さった方が、こちらにキャッチしよいのです神様を。合わせ鏡と同じと言われるのは、そんな事だと私は思いうですね。
   どうぞ。